読んでいただければそれで十分なのですが,ここからは,私の余計な一言です(笑)。
「踊りと踊り手違(達)の魂の攻防」(カッコ内は筆者)と題されたこのコラムでは、踊りの中に踊りそのものの意思や気持ちがある,ということから始まります。そして、踊り手が踊りに触れるとき,その踊りが「どの様に踊って欲しがっているか」を感じる,としています。私が誤解していない限り,それはとても共感できる感覚であり,かねてからイメージしつつもなかなか言葉では表現できなかったものなのです。それを可能した「踊りの気持ち」という言葉の発見を見て,拍手を送ると同時に,何か「すっきりした」,「幸せな」気分に浸りました。
このコラムを読んでふと思ったのは,踊りは踊られてこそ幸せなんだろうし,踊りの気持ちにそって踊られれば、もっと幸せなんだろうな。逆に,踊りの気持ちを無視して踊られれば悲しいんだろうな,ということでした。
しかし,一方で踊り手にも当然意思があるわけですね。「この踊りをこう踊りたい」という気持ちがあります。踊りの気持ちと踊り手の気持ちのせめぎ合い。それは、決して対立ではない。踊りが踊り手の潜在的な表現力を引き出すこともあれば、踊り手がその踊りに埋もれている美しさを発見し、顕在化することもあるわけです。それが「踊るということ」なんでしょうね。そして,その過程がとても楽しい。フォークダンスの時間や場所にともなう変化の歴史というのも,その過程によるものなのかもしれません。
もともと私自身、自分の踊りに対する気持ちとして「踊りが好きなのではなくて、踊ることが好きなのだ」と、その違いを明確に表現できないままに,そう考えていました。それは,こういうことだったんだと,何かとっても安心した気持ちになりました。
私のくだらない「感想文」はこの辺にします。その替わりに、この先崎氏のコラムの中から、とても気に入っている表現を引用します。
- 「踊る時、あるいは踊りを見るとき、その踊りがどの様に踊って欲しがっているか感じる、という事だ。」
- 「それが踊りの意志を扱んだものでなければ多くの人々に支持されるのだろうか。」
- 「踊り手の意志か(が)無ければ踊りではないし、踊りぞ(そ)のものの意志が感じられないのも、それは踊りとは言えないのではないか?」(カッコ内は筆者)